当サイトにおける重要なテーマである自由とは何かを説明するには、まず自由の定義から始める必要があると思うので、まずは自由を定義したいと思います。
目次
自由とは何か?
当サイトにおける自由の定義は「空(くう)」(“sunya”)です。
・・・「空」って何だよって話ですよね。
空というのは、大まかな説明として「在るといえば在るし、無いといえば無いもの」。それが「空」を理解する際に大きく役立ってくれるものだと思います。
もう一つの特性として「全て等しく重要。かつ、全て等しくどうでもいい」というのもあります。
これも「空」だと思います。
(思いますという表現なのは、「空」の捉え方は人それぞれあるので、そこに配慮した為です)
空の定義
空の定義に関して言えば、苫米地英人博士が論文を出してくれています。
苫米地博士の定義を理解出来るなら問題ないですが、ちょっと難しいと思う方でも抽象度という概念がわかればひとまず大丈夫です。
抽象度の説明は他で沢山されているので、そこまで詳しくは掘り下げません。(いずれ抽象度の説明記事も書きます)が「空」は抽象度という概念において、最も高い位置に存在するものです。
少しだけかいつまんで言えば、「情報量の多い少ない=抽象度」です。つまり、「情報量が最も少ないもの」を「抽象度が最も高い」。そして、「情報量が最も多いもの」が「抽象度が最も少ない」となります。
例:階層で見る抽象度
抽象度高 - 抽象度低
─────────────────
情報量少 > 情報量多
抽象的 > 具体的
特定できない > 特定できる
哺乳類>犬>ダックスフンド>ポチ
「抽象度」を詳しく解説したリンクを張っておきます。
空がなぜ自由と関係するのか
難しい事はよくわからないけど、何故その「空」が「自由」を表すか?を説明します。
オックスフォードランゲッチに従って言えば、自由とは、
《名・ダナ》他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。
これが自由の説明となっていますが、「束縛を受けず」というのが本質的には難しいです。
我々はそもそも自分の持っている知識の中でしか思うままにふるまう事が出来ません。
例えば、今現在職業選択の自由が日本で存在しますが、職業選択の自由とは、私達が知っている職業の中から選んでいいよという意味です。つまり、知らない職業になる事はできません。
この世の全ての情報に触れられるわけではないので、大前提として知識という面から「束縛を受け」自由ではありません。
また、なりたい職業になれるとは限りません。必要な試験に合格出来なくて諦める人や、本当はなれるのかもしれないのですが、家族や先生から「この仕事では食っていけない」等と言われて、なんだかんだで諦める人も少なくないと思います。
つまり、なりたい職業があっても、それに対する抵抗の力に屈した時点で「束縛を受け」自由ではありません。
ですが、「空」であるなら、「全て等しくどれでもいい」という姿勢を指すので、知識にも束縛されません。知らないものは存在せず、別の良い職業が現れた瞬間にもう一度選択すれば良く、今の決断を未来永劫続ける必要もないという姿勢なので束縛を受けず自由です。
「他からの束縛」も受け付けません。「諦める」でも「もう一度やる」でもなんでも良く、失敗が在るといえば、在るし、無いといえば無い。食っていけないという主張を受け入れるも受け入れないも「自由」。
全てを受け入れるか、受け流すか、一旦どちらでも良いという「空」に立ち返り、「束縛を受けない」姿勢を取り戻す事こそ「自由」を表現しているのではないか?というのが当サイトの主張です。
他の束縛とは何なのか?
もう一つ、「空」という概念を理解しやすくなるお話に空腹の修行僧の例があります。
空を体感するべく、食べ物をあまり食べない持続的な飢餓状態にある修行僧がいました。そこに道行く人がこう訪ねてきたとします。
「この石ころと、このおにぎり、どちらの方が欲しいですか?」
もちろん、「空」はお釈迦様がつくったものなので、お釈迦様と同じ世代、同じ地域の人間なら「おにぎり」は出てこないかもしれませんが、日本人にわかりやすい例として、その状況ではどちらを選ぶ方がより自由か?
当然、空腹状態のため普通の人ならおにぎりが欲しいはずです。
しかし、それだと自分の「飢餓感」に思考が束縛されているとも取れます。
(『いや、飢餓感を感じているのは自分だからそれは自分の意思、自由選択によるものだ』と思うかもしれません。
でも、本当でしょうか?飢餓感自体は自分の自由意志で飢餓感を感じるのではなく、自分の『本能』が『自分に向かって』主張してきている内容ではないでしょうか?
その様相は、先ほどのオックスフォードランゲッジにある自由の説明である『他からの束縛』の『他』そのものではないでしょうか?)
よって、この場合、当サイトにおける自由な回答が何になるかと言えば、
どちらでもいいし、何もくれなくても、両方くれても、どちらでもいい。
つまり、「どれでもいい」が答えになります。
(冒頭の『全て等しく重要。あるいは、全て等しくどうでもいい』に繋がります)
これが「空」であり、「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること」を端的に表すものになります。
本当にその空だけが自由なのか?
これまでの説明だけが自由なのか?これ以外を自由と認めない立場なのか?と聞かれれば、そんなことはありません。
「空」は、空観・仮観・中観の説明もされていないと、自由を適切に表現するには足りないと思うので、そこも説明します。
結論だけざっくり言えば、
- 空観は「この世はどこまでいっても我々の心が認識しているだけの存在に過ぎないただの幻である」という観方を指します。
- 仮観は「この世は幻だが、それぞれの物理的な現象は実在する。積極的にその存在を見る事も求める事も問題ない」とする観方を指します。
- 中観は「この世は幻に過ぎない。しかし各現象や存在には”役割”がある。現象のみに偏って世界を観過ぎると本質を見失うため、空観と役割のバランスをとる必要がある」という観方を指します。
長くなるので詳しくは割愛(別に解説ページも作成予定)しますが、自由の説明という文脈に限って言えば
「空観」に見られるように、この世はどこまでいっても自分の心が認識するもので出来た幻の世界である。この世が幻である以上、自分の自由意志に従ってどの幻に生きるのも自由であり、その自由を掴んで離さないためにも、この世は幻であるという事を常に認知しながら生きるべきである。
また、「仮観」に見られるように、その幻の中にも様々な現象・存在がたくさんあり、それらによって、より豊かな世界に発展したいと願う事には何の問題もない。その幻の実現・発展の為、自ら好んで限られた生命時間やエネルギーを活用してもよく、各々が表現したいものをのびのびと表現すべきである。
最後に「中観」に見られるように、
「仮観」に従って自らの意思の赴くまま、積極的に望む世界の創造に勤しんでもよいが、観方の偏りが大きくなると、限られた資源を求め、排他的思想などの破滅的な思考に陥ったり、自他に弊害が出る。
また、「空観」に従って世界全てが幻であると観て、世界に広がる様々な現象を自由な立場にたって見渡してもよいが、観方の偏りが大きくなると、徹底的な自他への無関心や、現世の繋がりに対する破滅的な拒絶思想に陥り、自他に弊害が出る。
そのため、「空観」に従って自他の自由な世界の観方を尊重し、「仮観」に従ってどの世界へも参加、活動、離脱の自由を自他に認め、常にバランスをとって生きるべきである。
こういった意味合いが含まれるものを「空」とし、人生論として「自由」の定義としたい。