自由をテーマにした当サイトにおいて自由=空なので、空を説明する便宜上、抽象度という概念を理解した方が自由に近付くと思うので「抽象度」について説明します。
抽象度が「自由」に繋がる理由は、抽象度を自由に上げ下げ出来る事が自由と捉えるからです。
「抽象度」とは何か
結論から言います。「抽象度」とは包摂半順序束(ほうせつ-はんじゅんじょ-そく)です。
・・・石を投げないでください。
余計わからん!となった方が退場したところで本題です。
https://youtu.be/pjUzD3I6u-Q?t=2569
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抽象度という言葉を日本に持ってきた苫米地博士自ら解説しているので、オリジナルから詳しく知りたい方は動画を確認してもらって理解を深めてもらえれば幸いです。
42:49~56:46秒ぐらいまでが本質を説明している部分かと思います。
が、このブログにおいては、より多くの人が理解しやすいよう掘り下げて解説していきたいと思います。動画でもあったように「抽象度」と「包摂半順序束」という言葉が出てきますが、意味を捉え辛いですからね。
包摂半順序束の解説
包摂半順序束とは何か?この言葉が意味するところは
前提として、この世界は情報で成り立っていて、情報量という「量」的な性質を備え持つ。
「包摂」=情報量の少ないものは抽象度が高く、抽象度が低いものを含む場合がある。
「半順序」=その情報量には大小・多い少ないがあって、並び替えが出来たり出来なかったりする。
「束」=その並び替えには結び目があって、それぞれの結び目を動かすことができる。
ざっくり説明するならこんな感じでしょうか。これらは哲学でいうところの存在論にあたり、理解できる方はそちらの道を深堀りしていくのも良いのではないでしょうか?
なぜ抽象度が自由に繋がるか
では、その抽象度というものの本質をざっくりと説明したところで、抽象度を知るとなぜ自由に近づくのか?について説明していきます。
抽象度は哲学から来た言葉
「抽象度」という言葉は、苫米地博士が「Levels of abstraction(レベルスオブアブストラクション)」という哲学において必要だった概念を日本語にしたものです。
哲学は、より深く本質を知ろうとする学問なので、最初に疑問を持つところから始まります。
まず、「我々はこう生きるべきだ」という人生論的な社会の流れがあり、その流れに疑問が生まれた時に哲学は発展してきました。
少なくとも私はそう認知しているのですが、
つまるところ、人間は「コレが正しい」というものを大多数が信じ、それが頭打ちするタイミングでより良いものにステップアップすべく伝家の宝刀である「哲学」を用いるのだと思います。
では、今この二十一世紀における哲学は何か?
今人類は何に疑問を持っているのか?
これは即ち、今人類がどの段階に存在するのか?を指し示すものだと思います。
私が思うに、今人類は物理世界から解放されようとしているのだと思います。
「物理世界」とは
まず結論から、我々が臨場感を最も持ちやすいもの、それがこの物理世界です。
例えば、目の前にコップがあるとする。
手を伸ばせばそれに触れることができ、持つことができ、そこに水を入れることができて、水を入れる際には音がして、水のにおいを感じ、「飲む」ことができる。
他には、目の前に「壁」が見えるのであれば、おそらく我々はその「壁」を通過する事が出来ない。
少し抽象的に言えば、
自分が取ったアクションを目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味わって、体で感じることができる。いわゆる「五感と言語」を用いて目の前の全てを感じることが出来る世界。
それをここでは物理世界と定義します。
仮想現実を指すVRゲームなんかがありますが、
あれは仮想の世界として目でその世界の中を見ることができますが、手で触れたり味わったり嗅いだりするのが現状難しいですよね。
それに対してこの物理世界は、感覚(五感)のフィードバックがもっともっとリアルな世界。「リアルな世界」は別の言い方をすれば、「臨場感が高い世界」とも言えますよね。
我々は基本そこの世界で生きています。
人間はそれぞれが体を持ち、その世界でエネルギーが不足すると水を飲んだり、休憩したり、食べ物を食べたりしてエネルギーを補給し、望むように自分の体を動かすことができる。
その物理空間の世界に日々我々は生きているのです。
私がここで言いたかった事であり、「哲学」を用いて我々人類が辿り着いた現実というのは、
一方で我々人類は「情報空間の世界でも生きている」という事です。
情報空間とは
情報空間というのは,、物理空間から離れた情報の世界です。
例えば、我々がアインシュタインと言った時、それぞれが思い浮かべるアインシュタインを思い出すことが出来ます。
もちろん、それは言葉で表現されたわけですが、ゴッホの絵画を見れば目で「彼」を感じることができるし、モーツアルトなんかであれば音楽で、つまり耳で世界を味わうことができる。舌ならカーネル・サンダース(KFC創設者)のレシピなどでしょうか。
つまり、我々は物理空間以外の様々な世界に存在するということです。モーツアルトやダヴィンチ、ダーヴィン達なんかはわれわれの頭の中にも存在し続けていますよね。
これが情報空間に存在するということです。
物理世界におけるアインシュタインの肉体には、いわゆる魂のようなものが既に宿っていない状態ですが、アインシュタインらが生み出した物は、人類や我々の生活に生き続けていますよね。
つまり人類の中では情報空間において、今も彼らが生き続けている事を見ることが出来ます。
これが「情報空間の世界でも生きている」という意味です。
少し説明が長くなりましたが、最後に
情報には「量」という性質が備わり、量の大小、多い少ないによって並べ替えが出来たり出来なかったりするという階層性の説明だけ終えて本題に戻ります。
階層性とは
この世界は情報空間でもあり、物理空間も存在する世界。
そう捉えてみると、
例えば我々が「犬」と言った時には、物理世界に存在している全ての犬が当てはまります。
犬のポチといった場合は、犬の中のポチが選び出される。
(情報量でいうと、犬<ポチとなる。犬の下にポチが置かれる)
ポチの中でもダックスフンドのポチと表現される時もあれば、鈴木さんちのポチともなる。
(情報量でいうと、犬<ダックスフンド<ポチ<鈴木さんちのポチ)
「動物が好きな鈴木さん」という共通の友人を持つ人たちの会話では「鈴木さんちのポチ」で二人の会話が通じますが、共通の友人がいない場合は情報が”足らず”に伝わりません。ポチ以前に「鈴木さんてどこの誰なの?」となるはずです。
逆に共通の友人である「鈴木さん」がいても、「鈴木さんちのダックスフンドでカエルのタマ」だと、情報量が”多すぎ”で伝わりません。まずカエルの中にダックスフンドはいませんし、タマはおそらく猫の名前でしょう。情報量が多すぎで矛盾が発生しており、情報が処理できないはずです。
そして、「鈴木さんちのペット」とした場合、犬のポチを指すのか、猫のタマを指すのか、カエルのピョン吉なのか”特定できず”に伝わりません。この現象は情報量が”足りない”という点では最初に酷似していますが、特定できない主要因は「ペット」という言葉の下に「犬」「猫」「カエル」の情報量が横並びになっているために発生します。
(情報量でいうと、ペット>犬=猫=カエルとなる。並び替えが出来ない)
このように情報には量があり、大小で並び変えられる場合とそうでない場合があるということを一般的に表す概念が「階層性」となります。
抽象度のまとめ
よって、この世界は一見すると物理世界しか存在しないように見えるが、情報世界もあり、情報世界には情報が持つ性質として階層性がある。そして、その階層性を表したものが「抽象度」という言葉になります。
何が自由と繋がるのかといえば、我々は好きな抽象度でやりたい事が出来る事こそが自由だと考えるからです。
例えば、お腹が空いている時に何か食べ物を食べたいという物理的な抽象度で生きる私もいていいし、寝食忘れて何かに没頭するという趣味や欲求の世界に生きてもいい。
何か食べ物を食べたいという抽象度では、飲食の活動は動物でも日常的に行っているため、いわゆる動物的な抽象度と表現することも可能かもしれません。
断っておきますが、これが悪いと言っているわけではありません。我々は食べなければ死んでしまう。死んでしまうのは悲しい。だから食べるわけです。本人の自由意志に従って生きるのが自由だと言っているのです。
だから、死んでしまうのが悲しいから食べるでも、食べるのが好きだから食べるでも良いでしょう。
また、寝食を忘れて物事に打ち込むという抽象度は、動物的というよりは人間的な抽象度と表現できるかもしれません。少なくとも私は寝食を忘れて遊ぶ動物の話をあまり知りません。
その場合、その人は趣味や技術を向上させたいという世界の抽象度で生きていることになります。
一旦どちらでも良いと考えるのが空であり自由と定義しています。
それに習って言えば、食べたくなれば食べ、寝食忘れて高めたい技術があればその技術を高めても良い、自分が生きたい抽象度を決めその世界に生きること。それが自由。
どこの抽象度で自分を表現するか、
食べたいものを食べる。
高めたい技術を高める。
見たい動画を見る。
自分が今最もふさわしいと思う抽象度で自分を表現できる!
これこそが自由だと思うので「抽象度」は重要という説明になります。